性転換アビス
正直すまんかった。性転換すれば性格も変わる。多分。女ルーク(仮名ルクレーシャ、愛称ルーク)、女ガイ(仮名ケイ)、名前だけ女イオン(イオ)、ちょっぴり男ティア(ティエリ)
いつものように捏造有り原作展開とちょっと違うところ有り
ND2000
ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す
其は王族に連なる赤毛の女児なり。名を聖なる焔の光と称す
彼女はキムラスカ・ランバルディアを、新たなる繁栄に導くだろう
ND2002
栄光を掴む者、自らの生まれた島を滅ぼす。名をホドと称す
こののち、季節が一巡りするまで、キムラスカとマルクトの間に戦乱が続くであろう
■
つまんないつまんないつまんない。
ルクレーシャ・フォン・ファブレは自室で何度目かわからない溜息を吐いた。彼女はキムラスカ・ランバルディア王国の血統に連なる、ファブレ家の一人娘だ。キムラスカ王国の王族は皆赤毛と緑の瞳を持っている。彼女もまた、王族の血を流れる両親と同じく赤毛と緑の瞳を持っていたが、その両方共不思議な輝きを持っていた。
ルクレーシャ……愛称をルークと呼ぶが、彼女の赤毛は毛先になるにつれ色素が薄く金色に輝いている。毛先が傷んでいるわけではない。どんぐり眼(まなこ)の緑の瞳はビー玉のような明るい光をたたえており、角度によっては青や黄色にも見えた。
上背は高く、脚も長い。スリットの刻まれた上質なスカートからちらりと見える生白い脚と、踵の高い真紅の靴。腹回りが大きく開いた胸元までの白いジャケットを羽織っている。手首までを覆うぴったりとした手袋は日除けにすらなりそうにない。王族とは思えない露出度の高い服装は、ルークが自分で屋敷にあった服を改造したものだ。
家庭教師に帝王学を学ぶ傍ら、暇つぶしにと使用人のケイから裁縫を学んだのが悪かった。彼女はめきめきと裁縫の才能を伸ばし、ただの布切れはハンカチに、使い古したはぎれは可愛らしいパッチワークの人形に、流行りが終わった上質なレースはドレスへと変貌した。そこまではよかったのだが、日頃からドレスを気飽きたルークは「そうだ、このドレスを改造してしまおう」と思い立ってしまったのだ。
父親のクリムゾンが着なくなった白いジャケットを、自分のサイズに合わせて切っては縫い、まだ着れるのに少し汚れが付いたからと廃棄されそうになった、母親のシュザンヌの黒いドレスをスカートに。靴や手袋は元から所持していたものだが、それ以外の服は全てお手製だ。
これには屋敷の者全員が頭を抱えたが、駄々をこね「父上なんか大嫌い」と言ったルークに衝撃を受けたクリムゾンが最終的に折れた。ちなみに、シュザンヌは「ルークはお裁縫が得意なのね」と改造ドレスには触れずニコニコ笑っていた。
そんなルーク嬢は、今日も今日とて暇を持て余している。七年前、彼女は敵国マルクト帝国に誘拐された。ルークは趣味の一つである剣術の師匠、ヴァン・グランツに助け出されたが、誘拐された時の後遺症か、記憶喪失に陥っていた。歩き方はおろか、喋ることもできず赤ん坊のような状態になってしまったのだ。いま現在も十歳以前の記憶は戻っていない。彼女の誘拐事件は箝口令が敷かれ、国王インゴベルトは彼女が成人するまで屋敷の外に出さないよう、クリムゾンに勅命した。インゴベルトは母親であるシュザンヌの兄であり、ルークにとっては伯父にあたる。
十七歳といえば自立したいと考え出す時期だ。ただでさえ軟禁生活で退屈な思いをしているルークは、屋敷の外の世界に強い憧れを持っていた。
「うーん……またペールに、外の世界のお話でも聞こうかなぁ」
仲良しの庭師の顔を思い浮かべ、ルークはドレッサーの鏡を見つめて少し前髪をいじり、お気に入りの帽子とストールを手に自室を出た。ちなみに、どちらも露出度の高い服装に頭痛がしたクリムゾンからの贈り物である。
ルークの自室の正面は中庭になっている。円形の広場にはベンチが置かれ、色鮮やかな花を咲かせる花壇がある。ちょっとした公園のようになっていた。花壇を見渡すと、その中に蹲る初老の男との姿がある。庭師のペールだ。ルークの表情に自然と笑みが綻んだ。
「ペール、今日も土いじり?」
「おお、こんにちはルーク様。今日もいい天気でございますな」
腰をかがめていた男が立ち上がって一礼をしようとすると、ルークがそれを押しとどめてペールの隣にしゃがむ。
「お辞儀はいいの。それより、今日も外の世界の話を聞かせて!」
「ルーク様は本当に外が好きですな」
子供のような邪気のない笑顔でペールに話を求めるルークに、庭師は温かな笑みを浮かべる。馬鹿にする気配はない。彼はルークお気に入りの庭師であり、ルークの軟禁生活に少なからず同情心を持っている一人だ。
「だって、私17歳よ。成人したら妃になるかもしれないのよ。そんな人が、大人になるまで外の世界をなんにも知りませんでした、なんて間抜けじゃない?伯父上はなーんにもわかってないわ!みんなみんな心配性なのよ!」
拙い言葉でそう告げるルークには激しい憤りが感じられた。ルークにはキムラスカ王国の子息ナタン・ルツ・キムラスカ・ランバルディアという婚約者がいる。成人したら妃になるかも、とは婚約のことを言っているのだろう。
……とは言うものの、ルークは本当に妃になるつもりはない。ルークは婚約者のナタンがあまり好きではないため、わざと屋敷内での素行を悪くしているのだ。ルーク以外にキムラスカ王国の血統を持つ女児がいないために婚約関係を結ばれているのだが、そんなことは彼女には関係なかった。
「もっと外の世界を知りたいわ。もっと色々なところを歩いてみたい。色んな人と話をしたい。それなのに伯父上は私を閉じ込めるの。酷いと思わない?ペール。それにね、父上もよ、父上も酷いわ。娘のことを思うなら伯父上の命令なんて突っぱねればいいのに。あーあ、伯父上が国王じゃなくて、父上が国王だったらもっと融通きいたかしら」
「ルーク様、国王陛下とクリムゾン様はあなた様の身を案じているのですよ」
「わかってるわよ、そんなこと」
ペールの最もな一言にルークは頬を膨らませた。ルークも馬鹿ではない。勉強は確かに苦手だが、頭の回転は速いし、誰かを思いやる気持ちも人一倍強い。それはシュザンヌが病弱である故に、彼女を想って倒れることが頻繁にあったせいだろう。ルークのよく回る口は機嫌が悪くなったせいか滑りも悪くなった。
「……愚痴ばっかり聞かせて、ごめんなさい」
「こんな生活では仕方ないでしょう。それより、今日は海の話でもしましょうか」
「え、海!?わぁ、聞きたい聞きたい!聞かせてよ!」
「ええ、ええ」
一瞬にして機嫌が戻ったルークに、ペールは笑みを深めた。
■
海は広くて大きい。空よりも広いかもしれないところ。塩の匂いがして、浜辺には貝殻が落ちている。魚がいっぱい泳いでいて、海の上では海猫が飛んでいる。巻貝に耳を当てると波の音がする……。
ペールが話した『海』を自分の言葉で纏めて口の中で復唱する。地理的な海は知っていたが、海がどんなところかはいまいち想像がつかなかった。ルークは早く成人したいと思った。成人したら一番に屋敷を抜け出すのだ。そして一人っきりで旅を……やっぱり、ケイあたりは連れて行こうかな。一人じゃなんだか心許ない。頼りになる使用人の顔を思い浮かべる。
上機嫌で屋敷を宛もなく歩いていると、ルークを呼び止める声があった。執事のラムダスだ。
「お嬢様。ただ今、ローレライ教団詠師(えいし)ヴァン・グランツ謡将(ようしょう)閣下がお見えです」
「え?ヴァン師匠(せんせい)が?」
ルークの剣術の師匠であり、ルークが最も尊敬する人物だ。そういえばメイドの一人が客人が来ていると言っていた気がする、と記憶の糸をたぐる。しかし妙だ。
「けど、今日は剣の稽古の日じゃないでしょう?」
もう少し日があいてからヴァンに剣の稽古をしてもらう予定だったはずだ。素朴な疑問にラムダスは淀も無く答える。
「火急のご用だとか。後ほどお嬢様をお呼びするとのことでしたので、お部屋でお待ちください」
「わかった。……あと、もうお嬢様はやめてよ。私先月で十七になったのよ?」
「いえ、二十歳の御成人まではお嬢様と呼ばせていただきます」
頑ななラムダスにルークは片頬を膨らませる。一度良くなった機嫌がまた悪くなっていく。そんなルークにラムダスは追撃するように言葉を続ける。
「それからお嬢様。庭師のペールにお言葉をかけるのはお止めください。あれはお嬢様とは身分が違います」
「嫌、ぜーったい嫌!ラムダスのわからず屋!バーカ!」
「お嬢様、言葉遣いをお直しください!あなた様はファブレ公爵家の一人娘で、」
「そんなの聞き飽きたっつーの、この頭でっかち!」
捨て台詞のような言葉を吐き捨てると、ルークは踵の高い靴を履いているとは思えない速さで渡り廊下を走り抜けていった。背後でラムダスの声が聞こえた気がしたが、勿論ルークは無視をした。口うるさい人間は嫌いなのだ。記憶喪失になった頃から淑女としての教育を受けてきたルークは、言葉遣いや所作はお嬢様らしくなったが、一体どこで覚えたのかラムダスにのみこうして口汚い言葉を使う。一種の反抗期のようなものだった。
足早に自室へ戻り、帽子とストールを無造作にベッドへ放ったルークは、最近聞き慣れた甲高い耳鳴りにこめかみを抑えた。ノイズ混じりの耳鳴りは段々音量を増していき、ルークの頭に酷い激痛を伴っていく。たまらずルークはその場に膝をついた。
ルーク……我がた……声に……
低い男性のような声が聞こえてくる。ルークは嫌々と頭を振って頭痛に耐える。正体のわからない幻聴に構っている余裕はなかった。歯を食いしばって耐えていると、やがて痛みは引いていく。
「いたた……」
「どうしたのルーク!また例の頭痛!?」
「ケイ……」
ルークはこめかみに手を当てながらやっとこさ立ち上がる。そのままへにゃ、と崩れるような笑顔で「大丈夫、治まってきた」と言った。
「また幻聴?」
「何なのかしらね……本当うぜーっての」
「こら、言葉遣い」
「ごめんなさーい」
思わず出てきたあんまりな物言いに、ケイ・セシルがたしなめる。ケイが立っているのはルークの部屋の窓枠だったが、彼女は少しも気にした素振りは見せない。これが普通だったからだ。ケイはルークより四歳年上の、ルーク付きの使用人である。幼い頃からルークに仕えてきた彼女は、ルークにとって姉のような存在の幼馴染だ。彼女に歩き方や言葉を教えたのはケイなので、ある意味では育ての親のようなものかもしれない。
「しかし、このところ頻繁ね。確かマルクト帝国に誘拐されて以来だから……もう七年も経つのか」
「あーあ、マルクトのせいで私頭おかしい人みたい!」
両頬を膨らませて腕を組んだルークに、ケイは浮かべて窓枠から飛び降りる。手の埃を簡単に落としてから、苦笑いを浮かべた。
「ま、あんまり気にしすぎない方がいいわ。楽しいこと考えましょ。今日は何する?裁縫か……剣舞でもしようか」
「んふふ、残念でした。今日はヴァン師匠が来ていまーす!」
喜びを隠し切れないように言うルークに、ケイは首を傾げた。
「ヴァン様が?今日は剣術の日ではないでしょう?」
「急ぎの用があるんですって」
ケイがへえ、と頷いたその時、部屋の扉がノックされた。メイドだ。先ほど部屋で待っていれば呼びに来ると言っていたので、それだろう。声をかけるメイドにケイがあちゃあ、と小さく呟く。ケイは、「使用人がご主人様の部屋に遊びに来てちゃまずいからね。見つかる前に失礼するわ!」と言い残して窓から出て行った。
「ルクレーシャ様?」
あまり呼ばれ慣れない名前に眉根を寄せながら、「入りなさい」と静かに告げる。ペールやケイはルークが望む呼び方で呼んでくれるが、屋敷の者の殆どが彼女をルクレーシャと呼ぶ。ルークはその名前があまり好きではなかった。
「失礼致します。旦那様がお呼びです。応接室へお願い致します」
「わかりました。下がりなさい」
あまり温度を感じさせないルークの言葉に気にした様子もなく、メイドは一礼して部屋を出て行った。
■
「ただいま参りました、父上」
「うむ。座りなさい、ルクレーシャ」
ルークは外面モードでクリムゾンに笑顔で挨拶をした。外面モードとはケイが命名したもので、時たま来る客人に向けての猫かぶりを指している。この七年間で、ルークは世話のいらない大きな猫を腹の中に飼っていた。
優雅な所作で一礼し、クリムゾンに言われた通り近くの席、ヴァンの隣に腰かける。
「師匠、今日は私に稽古をつけてくれるんですか?」
「後で見てやろう。だがその前に話がある」
いつものルークならヴァンの首に飛びついて離れないが、実の両親の前でそんなことをすればヴァンの身が危ない。声音を落ち着かせてはいるものの、ルークは今すぐにでもヴァンに飛びつきたい気持ちでいっぱいだった。ヴァンは背が高く筋力もあるため、ルークを軽々持ち上げて何事もなく歩いてくれるのだ。ルークは、師匠みたいな兄上が欲しいといつも思っている。
「グランツ謡将は明日ダアトへ帰国されるそうだ」
「え!?……あ、失礼しました。しかし、一体何故?」
「私がローレライ教団の神託の盾(オラクル)騎士団に所属していることは知っているな」
ルークはガッデム!と叫び出したいのを抑えながら「神託の盾騎士団の主席総長、なんですよね」と声の震えを隠しながら言う。
「そうだ。私の任務は神託の盾騎士団を率い、導師イオをお護りすることにある」
「導師……イオ?」
聞きなれない名前だ。怪訝な表情を浮かべたルークに見かねて、シュザンヌが「ローレライ教団の指導者ですよ」と補足する。
「指導者?地位が高い方なのですか?」
「ええ。導師のおかげでマルクト帝国と我がキムラスカ・ランバルディア王国の休戦が成立しているのです」
(そんな人がいるのね、知らなかったわ)
「先代導師エベノスがホド戦争終結の功労者なら、現導師イオは今日(こんにち)の平和の象徴とも言える御方」
ルークは先代導師エベノスと、ホド戦争のことは知っていた。家庭教師の授業に何度かそんな話が出てきたのだ。ホド戦争の結末はあまり好きではなかったので、中身まではきちんと覚えていないが。というか、彼女がまともに勉学に勤しんだことはない。
「そのイオ様が、行方不明なのだそうだ」
「私は神託の盾騎士団の一員として、イオ様捜索の任に就く」
事の重大さはよくわかったが、しかしヴァンの不在はルークにとって死活問題だった。裁縫以外の趣味は剣術だけ。裁縫も確かに嫌いではないが、趣味の一つが暫くできないとなるとただでさえ退屈なのに更に退屈になってしまう。それにヴァンとじゃれあうだけで幸せなルークは、ヴァンの帰国が心から嫌だった。
「師匠、それなら私の剣の稽古は誰がつけてくれるのです?私はヴァン師匠じゃないと……!」
「ふふ、私がキムラスカ王国に戻るまで部下を来させよう。だからそうむくれるな」
「むっむくれてなんかいません!」
僅かに朱が差した頬を隠しながら反論する少女に、三人の大人が忍び笑いをする。ルークはぷく、と両頬を膨らませた。今日はよく頬を膨らませる日だ、とルークが考えていると、三人は更に笑みを深める。大人たちの行動がよくわからないルークは、それでもなんだか馬鹿にされている気持ちになって、そっぽを向いた。
「はは、ああ、ルクレーシャ、すまない。馬鹿にしているわけではないのだ……それとも、稽古をするのは嫌になったか?」
「……ヴァン師匠の意地悪」
普段はルークと呼ぶヴァンだったが、クリムゾンとシュザンヌの前だからか呼び方を改めている。それにまた苛立ちが募ったルークだったが、稽古がなくなるのは嫌だった。結局一言文句を言うにとどめて沈黙する。
「頼みましたぞ、グランツ謡将」
「ええ。――私は先に中庭に行く。支度が済んだらすぐ来るように」
そう言ってヴァンは一礼して応接室を出て行った。むむむ、とルークは小さく唸る。これは大変だ。とんでもない話だ。兄のような存在で、尊敬しているヴァン師匠が暫く不在。それも期間は未定。これからどうやって生きてけばいいんだっつーの!と今にも叫びだしそうだ。
(いっそのこと、屋敷なんか抜け出して私が導師イオを見つけ出せば……)
そう考えるルークだったが、屋敷の警備はファブレ家お抱えの白光(はっこう)騎士団が見ている。裁縫と剣が趣味の至って普通のお嬢様であるルークが屋敷を抜け出すのはほぼ不可能だろう。瞬間移動でもしない限り。
「おお、ルクレーシャ」
「母上」
不安げに名前を呼ぶシュザンヌに、ルークは腰を浮かせて立ち上がる。そのままシュザンヌのそばに寄ると、ルークの左手をシュザンヌが両手で握った。白く青い血管が浮き出たシュザンヌの手はひんやりとして冷たい。
「くれぐれも、怪我のないようにね。剣の稽古だなんて、本当は止めてほしいのよ。気をつけてちょうだい」
「わかっていますわ、母上」
実の母親の前でも外面モードは外さない。何もルークはシュザンヌが嫌いというわけではない。ただ、あまり口汚い言葉遣いをすると、シュザンヌは怒らない代わりにひどく悲しげな表情をするのだ。だからルークはシュザンヌの前では淑女としての行動を徹底している。母親思いなのだが、それがまたシュザンヌにとって不安感を煽っていることにルークは気付いていなかった。
そんな二人をじっと見ていたクリムゾンが、ルークに向けて苦々しげに口を開く。
「お前が誘拐されかかってからもう七年。……お前も十七歳か。勅命とはいえ、軟禁生活で苦労を掛けるな」
「……国王陛下と父上の心配は、わかっているつもりですわ。失礼いたします」
ルークは二人に一礼して応接室を出た。そして何度か肩を回し、首を傾ける。こき、と音が鳴り、大きく溜息を吐く。
「父上も母上も、心配性よ」
■
すっかり傷だらけになった木刀を携え、踵の高い靴から歩きやすい運動靴に履き替える。この靴はヴァンから木刀と共に贈られたものだ。運動靴はルークの足によく合っており、見目もオーダメイドなのか細部が小洒落ているものだった。しかし木刀と同じように年季が経っているせいか、少し踵が擦れていた。新しいものを買うと言ったヴァンを突っぱねたのはルークだ。ヴァンからの贈り物なんて滅多にない。もし新しく買うとしても、この靴は絶対に捨てないとルークは考えていた。
ルークが中庭に出ると、何故かヴァンとケイが声を潜めて話をしていた。
「なるほど、神託の盾の騎士様も大変ね」
「だがしばらくは貴下に任せるしかない。公爵や国王、それにルークの……」
「ルーク様!」
二人に近づこうとしたルークは、いつになく大きな声で名前を呼ぶペールにびく、と肩を震わせた。驚いてペールを見るが、ペールはいつも通り土いじりをしている。しかし大したことじゃないと思ったのか、すぐに二人へ駆け寄ってケイに問いかける。
「何してるの、ケイ」
「いいえ?ヴァン謡将は剣の達人ですからね。少しばかりご教授願おうと思って」
「ホントに?そんな感じには見えなかったけど。まぁいいわ。ヴァン師匠っ!」
ルークは漸くしたかったことを達成した。助走もなしにぴょん、と飛んだ先にはヴァンがいる。予想していたのか、飛びついたルークをいとも簡単に受け止めたヴァンは、厳格な面持ちを笑顔で綻ばせていた。
「ルーク、お前は相変わらず軽いな」
「そんなことないわ、この前お菓子食べ過ぎて1キロ太ったもの!」
「そうは見えんぞ、もっと食べなさい」
「これ以上食べたらブウサギになっちゃう」
仲睦まじい二人の様子に、ケイがニマニマと面白いものを見たような笑みを浮かべて口を出す。
「相変わらず仲良しね……まさか、そういう仲?」
生徒に手を出すなんて、とヴァンが口を開く前にルークが大声を張り上げた。それは先程まで子供のような無邪気な笑顔の少女ではなかった。首から耳まで真っ赤に染まっている。尋常ではない照れようだ。
「そんなわけないでしょ、変なこと言わないでよケイ!ヴァン師匠はヴァン師匠なの!」
「それなら、そろそろ私から降りなさい、ルーク」
「……はぁい」
たん、と軽やかに地面へ降りる。
「準備はいいのか?」
「大丈夫です!」
ヴァンと話している時のルークは笑顔が絶えない。いつも通りなルークに苦笑を浮かべたケイは、ベンチに腰をかけてルークに声をかけた。
「それじゃあ私は見学させてもらおうかな。頑張ってね、ルーク」
「はいはーい」
気持ちケイにはぞんざいな返事を返す。ルークが楽しみにしていた稽古が始まった。
■
トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ……
(なに?何か、来る?)
いつものように基礎を確認し、体得した双牙斬を放ち、師匠に褒められる。いつもの流れ。それなのに、今日はどこか雰囲気が違った。遠くから聞こえてくる、優しく響く低音。美しいと言える歌声が響いてきたのだ。
「この声は……!?」
ヴァンが片膝をついた。ルークも同じように膝をつく。体が鉛のように重く、今にも気絶してしまいそうな睡魔が襲いかかった。ルークの朦朧とした意識の中、ペールの大きな声が耳を貫く。『お屋敷に第七音譜術士(セブンスフォにマー)が入り込んだ』……ルークは内心首を傾げた。『第七音譜術士』とは何だ?
「くそ……眠気が襲ってくる。何をやってるのよ、警備兵たちは!」
――屋敷を警備する白光騎士団の人間は、全員眠り込んでいた。美しい歌声を間近で聴いたのだ。いいや、歌声ではない、詩に乗せられた術に、警備兵たちは眠ったのだ。
一人の青年が屋敷の屋根から広場に降り立った。枯色の短髪は前髪が長く、右目を覆い隠しており、ダアトの軍服を着込み、右手に杖を持っている。切れ長の澄んだ青い瞳は、激しい憎しみの炎で彩られていた。視線の先は、ヴァン一人。
「ようやく見つけたよ。裏切り者、ヴァンデスデルカ……覚悟ォっ!」
青年が何本かのナイフを取り出し、ヴァンに向けて投げる。恐ろしい程の正確さで確実にヴァンの足を狙っていたが、さすが神託の盾の騎士というべきか、危うげなく全てのナイフを避ける。しかしやはり青年の歌声が効いているのか、片膝をついて苦悶に表情を歪めている。
「やはりお前か、ティエリ!」
ヴァンが剣を振るうが、やはり青年は上手く躱す。そして瞬時に体制を整えると、またもヴァンにナイフを構えた。それを見たルークは目を見開き、やがて眉根を寄せて立ち上がる。手にはしっかりとボロボロの木刀を持って。
「なんなのよ、あなたっ!」
ルークがみすみす師匠の危機を見逃すはずがなかった。木刀を思い切り青年に向かって振り上げる!(ヴァンの声が聞こえたような気がしたが、なんと言っているかはわからなかった。)青年は持っていた杖で木刀を受け止めた。次の瞬間、ルークは地震かと思うくらい大きな振動を感じた。あたりが眩い光に包まれる。
――響け……ローレライの意思よ、届け……開くのだ!
頭痛とともに聞く幻聴の声。それと酷似しているような気がして、ルークは眉根を寄せる。
「また変な声……?」
「これは、第七音素(セブンスフォニム)!?」
青年の動揺した姿と、ヴァンの「しまった……第七音素が反応し合ったかっ!」という叫び声を最後に、ルークは意識を失った。
いつものように捏造有り原作展開とちょっと違うところ有り
ND2000
ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す
其は王族に連なる赤毛の女児なり。名を聖なる焔の光と称す
彼女はキムラスカ・ランバルディアを、新たなる繁栄に導くだろう
ND2002
栄光を掴む者、自らの生まれた島を滅ぼす。名をホドと称す
こののち、季節が一巡りするまで、キムラスカとマルクトの間に戦乱が続くであろう
■
つまんないつまんないつまんない。
ルクレーシャ・フォン・ファブレは自室で何度目かわからない溜息を吐いた。彼女はキムラスカ・ランバルディア王国の血統に連なる、ファブレ家の一人娘だ。キムラスカ王国の王族は皆赤毛と緑の瞳を持っている。彼女もまた、王族の血を流れる両親と同じく赤毛と緑の瞳を持っていたが、その両方共不思議な輝きを持っていた。
ルクレーシャ……愛称をルークと呼ぶが、彼女の赤毛は毛先になるにつれ色素が薄く金色に輝いている。毛先が傷んでいるわけではない。どんぐり眼(まなこ)の緑の瞳はビー玉のような明るい光をたたえており、角度によっては青や黄色にも見えた。
上背は高く、脚も長い。スリットの刻まれた上質なスカートからちらりと見える生白い脚と、踵の高い真紅の靴。腹回りが大きく開いた胸元までの白いジャケットを羽織っている。手首までを覆うぴったりとした手袋は日除けにすらなりそうにない。王族とは思えない露出度の高い服装は、ルークが自分で屋敷にあった服を改造したものだ。
家庭教師に帝王学を学ぶ傍ら、暇つぶしにと使用人のケイから裁縫を学んだのが悪かった。彼女はめきめきと裁縫の才能を伸ばし、ただの布切れはハンカチに、使い古したはぎれは可愛らしいパッチワークの人形に、流行りが終わった上質なレースはドレスへと変貌した。そこまではよかったのだが、日頃からドレスを気飽きたルークは「そうだ、このドレスを改造してしまおう」と思い立ってしまったのだ。
父親のクリムゾンが着なくなった白いジャケットを、自分のサイズに合わせて切っては縫い、まだ着れるのに少し汚れが付いたからと廃棄されそうになった、母親のシュザンヌの黒いドレスをスカートに。靴や手袋は元から所持していたものだが、それ以外の服は全てお手製だ。
これには屋敷の者全員が頭を抱えたが、駄々をこね「父上なんか大嫌い」と言ったルークに衝撃を受けたクリムゾンが最終的に折れた。ちなみに、シュザンヌは「ルークはお裁縫が得意なのね」と改造ドレスには触れずニコニコ笑っていた。
そんなルーク嬢は、今日も今日とて暇を持て余している。七年前、彼女は敵国マルクト帝国に誘拐された。ルークは趣味の一つである剣術の師匠、ヴァン・グランツに助け出されたが、誘拐された時の後遺症か、記憶喪失に陥っていた。歩き方はおろか、喋ることもできず赤ん坊のような状態になってしまったのだ。いま現在も十歳以前の記憶は戻っていない。彼女の誘拐事件は箝口令が敷かれ、国王インゴベルトは彼女が成人するまで屋敷の外に出さないよう、クリムゾンに勅命した。インゴベルトは母親であるシュザンヌの兄であり、ルークにとっては伯父にあたる。
十七歳といえば自立したいと考え出す時期だ。ただでさえ軟禁生活で退屈な思いをしているルークは、屋敷の外の世界に強い憧れを持っていた。
「うーん……またペールに、外の世界のお話でも聞こうかなぁ」
仲良しの庭師の顔を思い浮かべ、ルークはドレッサーの鏡を見つめて少し前髪をいじり、お気に入りの帽子とストールを手に自室を出た。ちなみに、どちらも露出度の高い服装に頭痛がしたクリムゾンからの贈り物である。
ルークの自室の正面は中庭になっている。円形の広場にはベンチが置かれ、色鮮やかな花を咲かせる花壇がある。ちょっとした公園のようになっていた。花壇を見渡すと、その中に蹲る初老の男との姿がある。庭師のペールだ。ルークの表情に自然と笑みが綻んだ。
「ペール、今日も土いじり?」
「おお、こんにちはルーク様。今日もいい天気でございますな」
腰をかがめていた男が立ち上がって一礼をしようとすると、ルークがそれを押しとどめてペールの隣にしゃがむ。
「お辞儀はいいの。それより、今日も外の世界の話を聞かせて!」
「ルーク様は本当に外が好きですな」
子供のような邪気のない笑顔でペールに話を求めるルークに、庭師は温かな笑みを浮かべる。馬鹿にする気配はない。彼はルークお気に入りの庭師であり、ルークの軟禁生活に少なからず同情心を持っている一人だ。
「だって、私17歳よ。成人したら妃になるかもしれないのよ。そんな人が、大人になるまで外の世界をなんにも知りませんでした、なんて間抜けじゃない?伯父上はなーんにもわかってないわ!みんなみんな心配性なのよ!」
拙い言葉でそう告げるルークには激しい憤りが感じられた。ルークにはキムラスカ王国の子息ナタン・ルツ・キムラスカ・ランバルディアという婚約者がいる。成人したら妃になるかも、とは婚約のことを言っているのだろう。
……とは言うものの、ルークは本当に妃になるつもりはない。ルークは婚約者のナタンがあまり好きではないため、わざと屋敷内での素行を悪くしているのだ。ルーク以外にキムラスカ王国の血統を持つ女児がいないために婚約関係を結ばれているのだが、そんなことは彼女には関係なかった。
「もっと外の世界を知りたいわ。もっと色々なところを歩いてみたい。色んな人と話をしたい。それなのに伯父上は私を閉じ込めるの。酷いと思わない?ペール。それにね、父上もよ、父上も酷いわ。娘のことを思うなら伯父上の命令なんて突っぱねればいいのに。あーあ、伯父上が国王じゃなくて、父上が国王だったらもっと融通きいたかしら」
「ルーク様、国王陛下とクリムゾン様はあなた様の身を案じているのですよ」
「わかってるわよ、そんなこと」
ペールの最もな一言にルークは頬を膨らませた。ルークも馬鹿ではない。勉強は確かに苦手だが、頭の回転は速いし、誰かを思いやる気持ちも人一倍強い。それはシュザンヌが病弱である故に、彼女を想って倒れることが頻繁にあったせいだろう。ルークのよく回る口は機嫌が悪くなったせいか滑りも悪くなった。
「……愚痴ばっかり聞かせて、ごめんなさい」
「こんな生活では仕方ないでしょう。それより、今日は海の話でもしましょうか」
「え、海!?わぁ、聞きたい聞きたい!聞かせてよ!」
「ええ、ええ」
一瞬にして機嫌が戻ったルークに、ペールは笑みを深めた。
■
海は広くて大きい。空よりも広いかもしれないところ。塩の匂いがして、浜辺には貝殻が落ちている。魚がいっぱい泳いでいて、海の上では海猫が飛んでいる。巻貝に耳を当てると波の音がする……。
ペールが話した『海』を自分の言葉で纏めて口の中で復唱する。地理的な海は知っていたが、海がどんなところかはいまいち想像がつかなかった。ルークは早く成人したいと思った。成人したら一番に屋敷を抜け出すのだ。そして一人っきりで旅を……やっぱり、ケイあたりは連れて行こうかな。一人じゃなんだか心許ない。頼りになる使用人の顔を思い浮かべる。
上機嫌で屋敷を宛もなく歩いていると、ルークを呼び止める声があった。執事のラムダスだ。
「お嬢様。ただ今、ローレライ教団詠師(えいし)ヴァン・グランツ謡将(ようしょう)閣下がお見えです」
「え?ヴァン師匠(せんせい)が?」
ルークの剣術の師匠であり、ルークが最も尊敬する人物だ。そういえばメイドの一人が客人が来ていると言っていた気がする、と記憶の糸をたぐる。しかし妙だ。
「けど、今日は剣の稽古の日じゃないでしょう?」
もう少し日があいてからヴァンに剣の稽古をしてもらう予定だったはずだ。素朴な疑問にラムダスは淀も無く答える。
「火急のご用だとか。後ほどお嬢様をお呼びするとのことでしたので、お部屋でお待ちください」
「わかった。……あと、もうお嬢様はやめてよ。私先月で十七になったのよ?」
「いえ、二十歳の御成人まではお嬢様と呼ばせていただきます」
頑ななラムダスにルークは片頬を膨らませる。一度良くなった機嫌がまた悪くなっていく。そんなルークにラムダスは追撃するように言葉を続ける。
「それからお嬢様。庭師のペールにお言葉をかけるのはお止めください。あれはお嬢様とは身分が違います」
「嫌、ぜーったい嫌!ラムダスのわからず屋!バーカ!」
「お嬢様、言葉遣いをお直しください!あなた様はファブレ公爵家の一人娘で、」
「そんなの聞き飽きたっつーの、この頭でっかち!」
捨て台詞のような言葉を吐き捨てると、ルークは踵の高い靴を履いているとは思えない速さで渡り廊下を走り抜けていった。背後でラムダスの声が聞こえた気がしたが、勿論ルークは無視をした。口うるさい人間は嫌いなのだ。記憶喪失になった頃から淑女としての教育を受けてきたルークは、言葉遣いや所作はお嬢様らしくなったが、一体どこで覚えたのかラムダスにのみこうして口汚い言葉を使う。一種の反抗期のようなものだった。
足早に自室へ戻り、帽子とストールを無造作にベッドへ放ったルークは、最近聞き慣れた甲高い耳鳴りにこめかみを抑えた。ノイズ混じりの耳鳴りは段々音量を増していき、ルークの頭に酷い激痛を伴っていく。たまらずルークはその場に膝をついた。
ルーク……我がた……声に……
低い男性のような声が聞こえてくる。ルークは嫌々と頭を振って頭痛に耐える。正体のわからない幻聴に構っている余裕はなかった。歯を食いしばって耐えていると、やがて痛みは引いていく。
「いたた……」
「どうしたのルーク!また例の頭痛!?」
「ケイ……」
ルークはこめかみに手を当てながらやっとこさ立ち上がる。そのままへにゃ、と崩れるような笑顔で「大丈夫、治まってきた」と言った。
「また幻聴?」
「何なのかしらね……本当うぜーっての」
「こら、言葉遣い」
「ごめんなさーい」
思わず出てきたあんまりな物言いに、ケイ・セシルがたしなめる。ケイが立っているのはルークの部屋の窓枠だったが、彼女は少しも気にした素振りは見せない。これが普通だったからだ。ケイはルークより四歳年上の、ルーク付きの使用人である。幼い頃からルークに仕えてきた彼女は、ルークにとって姉のような存在の幼馴染だ。彼女に歩き方や言葉を教えたのはケイなので、ある意味では育ての親のようなものかもしれない。
「しかし、このところ頻繁ね。確かマルクト帝国に誘拐されて以来だから……もう七年も経つのか」
「あーあ、マルクトのせいで私頭おかしい人みたい!」
両頬を膨らませて腕を組んだルークに、ケイは浮かべて窓枠から飛び降りる。手の埃を簡単に落としてから、苦笑いを浮かべた。
「ま、あんまり気にしすぎない方がいいわ。楽しいこと考えましょ。今日は何する?裁縫か……剣舞でもしようか」
「んふふ、残念でした。今日はヴァン師匠が来ていまーす!」
喜びを隠し切れないように言うルークに、ケイは首を傾げた。
「ヴァン様が?今日は剣術の日ではないでしょう?」
「急ぎの用があるんですって」
ケイがへえ、と頷いたその時、部屋の扉がノックされた。メイドだ。先ほど部屋で待っていれば呼びに来ると言っていたので、それだろう。声をかけるメイドにケイがあちゃあ、と小さく呟く。ケイは、「使用人がご主人様の部屋に遊びに来てちゃまずいからね。見つかる前に失礼するわ!」と言い残して窓から出て行った。
「ルクレーシャ様?」
あまり呼ばれ慣れない名前に眉根を寄せながら、「入りなさい」と静かに告げる。ペールやケイはルークが望む呼び方で呼んでくれるが、屋敷の者の殆どが彼女をルクレーシャと呼ぶ。ルークはその名前があまり好きではなかった。
「失礼致します。旦那様がお呼びです。応接室へお願い致します」
「わかりました。下がりなさい」
あまり温度を感じさせないルークの言葉に気にした様子もなく、メイドは一礼して部屋を出て行った。
■
「ただいま参りました、父上」
「うむ。座りなさい、ルクレーシャ」
ルークは外面モードでクリムゾンに笑顔で挨拶をした。外面モードとはケイが命名したもので、時たま来る客人に向けての猫かぶりを指している。この七年間で、ルークは世話のいらない大きな猫を腹の中に飼っていた。
優雅な所作で一礼し、クリムゾンに言われた通り近くの席、ヴァンの隣に腰かける。
「師匠、今日は私に稽古をつけてくれるんですか?」
「後で見てやろう。だがその前に話がある」
いつものルークならヴァンの首に飛びついて離れないが、実の両親の前でそんなことをすればヴァンの身が危ない。声音を落ち着かせてはいるものの、ルークは今すぐにでもヴァンに飛びつきたい気持ちでいっぱいだった。ヴァンは背が高く筋力もあるため、ルークを軽々持ち上げて何事もなく歩いてくれるのだ。ルークは、師匠みたいな兄上が欲しいといつも思っている。
「グランツ謡将は明日ダアトへ帰国されるそうだ」
「え!?……あ、失礼しました。しかし、一体何故?」
「私がローレライ教団の神託の盾(オラクル)騎士団に所属していることは知っているな」
ルークはガッデム!と叫び出したいのを抑えながら「神託の盾騎士団の主席総長、なんですよね」と声の震えを隠しながら言う。
「そうだ。私の任務は神託の盾騎士団を率い、導師イオをお護りすることにある」
「導師……イオ?」
聞きなれない名前だ。怪訝な表情を浮かべたルークに見かねて、シュザンヌが「ローレライ教団の指導者ですよ」と補足する。
「指導者?地位が高い方なのですか?」
「ええ。導師のおかげでマルクト帝国と我がキムラスカ・ランバルディア王国の休戦が成立しているのです」
(そんな人がいるのね、知らなかったわ)
「先代導師エベノスがホド戦争終結の功労者なら、現導師イオは今日(こんにち)の平和の象徴とも言える御方」
ルークは先代導師エベノスと、ホド戦争のことは知っていた。家庭教師の授業に何度かそんな話が出てきたのだ。ホド戦争の結末はあまり好きではなかったので、中身まではきちんと覚えていないが。というか、彼女がまともに勉学に勤しんだことはない。
「そのイオ様が、行方不明なのだそうだ」
「私は神託の盾騎士団の一員として、イオ様捜索の任に就く」
事の重大さはよくわかったが、しかしヴァンの不在はルークにとって死活問題だった。裁縫以外の趣味は剣術だけ。裁縫も確かに嫌いではないが、趣味の一つが暫くできないとなるとただでさえ退屈なのに更に退屈になってしまう。それにヴァンとじゃれあうだけで幸せなルークは、ヴァンの帰国が心から嫌だった。
「師匠、それなら私の剣の稽古は誰がつけてくれるのです?私はヴァン師匠じゃないと……!」
「ふふ、私がキムラスカ王国に戻るまで部下を来させよう。だからそうむくれるな」
「むっむくれてなんかいません!」
僅かに朱が差した頬を隠しながら反論する少女に、三人の大人が忍び笑いをする。ルークはぷく、と両頬を膨らませた。今日はよく頬を膨らませる日だ、とルークが考えていると、三人は更に笑みを深める。大人たちの行動がよくわからないルークは、それでもなんだか馬鹿にされている気持ちになって、そっぽを向いた。
「はは、ああ、ルクレーシャ、すまない。馬鹿にしているわけではないのだ……それとも、稽古をするのは嫌になったか?」
「……ヴァン師匠の意地悪」
普段はルークと呼ぶヴァンだったが、クリムゾンとシュザンヌの前だからか呼び方を改めている。それにまた苛立ちが募ったルークだったが、稽古がなくなるのは嫌だった。結局一言文句を言うにとどめて沈黙する。
「頼みましたぞ、グランツ謡将」
「ええ。――私は先に中庭に行く。支度が済んだらすぐ来るように」
そう言ってヴァンは一礼して応接室を出て行った。むむむ、とルークは小さく唸る。これは大変だ。とんでもない話だ。兄のような存在で、尊敬しているヴァン師匠が暫く不在。それも期間は未定。これからどうやって生きてけばいいんだっつーの!と今にも叫びだしそうだ。
(いっそのこと、屋敷なんか抜け出して私が導師イオを見つけ出せば……)
そう考えるルークだったが、屋敷の警備はファブレ家お抱えの白光(はっこう)騎士団が見ている。裁縫と剣が趣味の至って普通のお嬢様であるルークが屋敷を抜け出すのはほぼ不可能だろう。瞬間移動でもしない限り。
「おお、ルクレーシャ」
「母上」
不安げに名前を呼ぶシュザンヌに、ルークは腰を浮かせて立ち上がる。そのままシュザンヌのそばに寄ると、ルークの左手をシュザンヌが両手で握った。白く青い血管が浮き出たシュザンヌの手はひんやりとして冷たい。
「くれぐれも、怪我のないようにね。剣の稽古だなんて、本当は止めてほしいのよ。気をつけてちょうだい」
「わかっていますわ、母上」
実の母親の前でも外面モードは外さない。何もルークはシュザンヌが嫌いというわけではない。ただ、あまり口汚い言葉遣いをすると、シュザンヌは怒らない代わりにひどく悲しげな表情をするのだ。だからルークはシュザンヌの前では淑女としての行動を徹底している。母親思いなのだが、それがまたシュザンヌにとって不安感を煽っていることにルークは気付いていなかった。
そんな二人をじっと見ていたクリムゾンが、ルークに向けて苦々しげに口を開く。
「お前が誘拐されかかってからもう七年。……お前も十七歳か。勅命とはいえ、軟禁生活で苦労を掛けるな」
「……国王陛下と父上の心配は、わかっているつもりですわ。失礼いたします」
ルークは二人に一礼して応接室を出た。そして何度か肩を回し、首を傾ける。こき、と音が鳴り、大きく溜息を吐く。
「父上も母上も、心配性よ」
■
すっかり傷だらけになった木刀を携え、踵の高い靴から歩きやすい運動靴に履き替える。この靴はヴァンから木刀と共に贈られたものだ。運動靴はルークの足によく合っており、見目もオーダメイドなのか細部が小洒落ているものだった。しかし木刀と同じように年季が経っているせいか、少し踵が擦れていた。新しいものを買うと言ったヴァンを突っぱねたのはルークだ。ヴァンからの贈り物なんて滅多にない。もし新しく買うとしても、この靴は絶対に捨てないとルークは考えていた。
ルークが中庭に出ると、何故かヴァンとケイが声を潜めて話をしていた。
「なるほど、神託の盾の騎士様も大変ね」
「だがしばらくは貴下に任せるしかない。公爵や国王、それにルークの……」
「ルーク様!」
二人に近づこうとしたルークは、いつになく大きな声で名前を呼ぶペールにびく、と肩を震わせた。驚いてペールを見るが、ペールはいつも通り土いじりをしている。しかし大したことじゃないと思ったのか、すぐに二人へ駆け寄ってケイに問いかける。
「何してるの、ケイ」
「いいえ?ヴァン謡将は剣の達人ですからね。少しばかりご教授願おうと思って」
「ホントに?そんな感じには見えなかったけど。まぁいいわ。ヴァン師匠っ!」
ルークは漸くしたかったことを達成した。助走もなしにぴょん、と飛んだ先にはヴァンがいる。予想していたのか、飛びついたルークをいとも簡単に受け止めたヴァンは、厳格な面持ちを笑顔で綻ばせていた。
「ルーク、お前は相変わらず軽いな」
「そんなことないわ、この前お菓子食べ過ぎて1キロ太ったもの!」
「そうは見えんぞ、もっと食べなさい」
「これ以上食べたらブウサギになっちゃう」
仲睦まじい二人の様子に、ケイがニマニマと面白いものを見たような笑みを浮かべて口を出す。
「相変わらず仲良しね……まさか、そういう仲?」
生徒に手を出すなんて、とヴァンが口を開く前にルークが大声を張り上げた。それは先程まで子供のような無邪気な笑顔の少女ではなかった。首から耳まで真っ赤に染まっている。尋常ではない照れようだ。
「そんなわけないでしょ、変なこと言わないでよケイ!ヴァン師匠はヴァン師匠なの!」
「それなら、そろそろ私から降りなさい、ルーク」
「……はぁい」
たん、と軽やかに地面へ降りる。
「準備はいいのか?」
「大丈夫です!」
ヴァンと話している時のルークは笑顔が絶えない。いつも通りなルークに苦笑を浮かべたケイは、ベンチに腰をかけてルークに声をかけた。
「それじゃあ私は見学させてもらおうかな。頑張ってね、ルーク」
「はいはーい」
気持ちケイにはぞんざいな返事を返す。ルークが楽しみにしていた稽古が始まった。
■
トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ……
(なに?何か、来る?)
いつものように基礎を確認し、体得した双牙斬を放ち、師匠に褒められる。いつもの流れ。それなのに、今日はどこか雰囲気が違った。遠くから聞こえてくる、優しく響く低音。美しいと言える歌声が響いてきたのだ。
「この声は……!?」
ヴァンが片膝をついた。ルークも同じように膝をつく。体が鉛のように重く、今にも気絶してしまいそうな睡魔が襲いかかった。ルークの朦朧とした意識の中、ペールの大きな声が耳を貫く。『お屋敷に第七音譜術士(セブンスフォにマー)が入り込んだ』……ルークは内心首を傾げた。『第七音譜術士』とは何だ?
「くそ……眠気が襲ってくる。何をやってるのよ、警備兵たちは!」
――屋敷を警備する白光騎士団の人間は、全員眠り込んでいた。美しい歌声を間近で聴いたのだ。いいや、歌声ではない、詩に乗せられた術に、警備兵たちは眠ったのだ。
一人の青年が屋敷の屋根から広場に降り立った。枯色の短髪は前髪が長く、右目を覆い隠しており、ダアトの軍服を着込み、右手に杖を持っている。切れ長の澄んだ青い瞳は、激しい憎しみの炎で彩られていた。視線の先は、ヴァン一人。
「ようやく見つけたよ。裏切り者、ヴァンデスデルカ……覚悟ォっ!」
青年が何本かのナイフを取り出し、ヴァンに向けて投げる。恐ろしい程の正確さで確実にヴァンの足を狙っていたが、さすが神託の盾の騎士というべきか、危うげなく全てのナイフを避ける。しかしやはり青年の歌声が効いているのか、片膝をついて苦悶に表情を歪めている。
「やはりお前か、ティエリ!」
ヴァンが剣を振るうが、やはり青年は上手く躱す。そして瞬時に体制を整えると、またもヴァンにナイフを構えた。それを見たルークは目を見開き、やがて眉根を寄せて立ち上がる。手にはしっかりとボロボロの木刀を持って。
「なんなのよ、あなたっ!」
ルークがみすみす師匠の危機を見逃すはずがなかった。木刀を思い切り青年に向かって振り上げる!(ヴァンの声が聞こえたような気がしたが、なんと言っているかはわからなかった。)青年は持っていた杖で木刀を受け止めた。次の瞬間、ルークは地震かと思うくらい大きな振動を感じた。あたりが眩い光に包まれる。
――響け……ローレライの意思よ、届け……開くのだ!
頭痛とともに聞く幻聴の声。それと酷似しているような気がして、ルークは眉根を寄せる。
「また変な声……?」
「これは、第七音素(セブンスフォニム)!?」
青年の動揺した姿と、ヴァンの「しまった……第七音素が反応し合ったかっ!」という叫び声を最後に、ルークは意識を失った。
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